6月7日(土)、PM1:30〜より上野東小学校「音楽室」において、地誌編纂委員の田畑 孝一氏を講師に招き「伊賀上野緑ケ丘地誌発刊記念」講演会を行いました。
演題は伊賀市緑ケ丘地区に残る戦争遺跡
「伊賀海軍航空基地」
1.伊賀海軍航空基地の建設
(イ)軍事基地の拡散と軍需工場の疎開
(ロ)第二鈴鹿海軍航空基地の配備
(ハ)三菱が誇る零式艦上戦闘機「零戦」や一式陸上攻撃機「一式陸攻」の生産拠点の分散
2.伊賀海軍航空基地用地の接収
(イ)上野市、中瀬村、友生村にまたがる上野南部の広陵地(通称 野畠)、879,250平方メートルを接収
(ロ)接収地内に
・21世帯の農家
・出雲墓(藤堂出雲守高清の墓)
・伊賀国分寺跡
3.基地建設隊の来野
(イ)横須賀海軍施設部 津市高茶屋海軍工廠
(ロ)朝鮮半島出身者で結成された 基地建設協力隊
4.福地栄彦大尉(福地派遣隊)の着任
5.米軍の空襲により「一式陸攻」の生産拠点が被害を受け、生産の激減
6.本土決戦への準備
(イ)基地内での応戦体制
(ロ)陸戦隊要員の訓練
(ハ)伊賀焼手投弾の試作
7.第101航空戦隊司令部の来野
(イ)第101航空戦隊(通称 鶴部隊)
(ロ)第101航空戦隊司令部の終戦処理
8.終戦時の「伊賀海軍航空基地」
について講演。
参加者80名は戦時中のできごとに聞き入り、1時間30分の講演時間があっという間に終わりました。その後約1時間かけ掩体壕(えんたいごう)誘導路の跡地を見学しました。掩体壕は、米軍の攻撃から飛行機を守るための防空壕として作られたものです。円形の土塁の中へ飛行機を格納し木の葉などでカムフラージュする方法で、飛行機は一式陸攻という爆撃機で飛行機全体が入れる壕ではなく、主翼と機首を除いて収容していた。