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東部地域住民自治協議会

       講演会「藤堂高虎を語る 」開催

            いがうえの語り部の会会長 辻野和彦さんをお迎えして


 

60-1  8月3日(土)午後2時から東部公民館において参加者40数名の中、ご講演をいただきました。
 「学生時代から、伊賀に生まれ、伊賀に育った人間として、伊賀を知り、伊賀を誇りに思い、伊賀の宝として知り得たことを皆さんにお伝えしたいという思いが募り現在に至っております。……」という伊賀の里への熱い思いからお話が始まりました。
 最初、高虎が初陣を飾った姉川の戦いでは、もう既に(当時15歳)6尺2寸(約190cm)、30貫(110s)の大きな体格の持ち主にまず驚かされました。
当時は大人の平均身長が155cm程度であったことから、現代を含め当時から随分体格に恵まれていた武士だったようです。

 ただ15歳の時の初陣から、浅井・阿閉・磯野・織田等と何人かの大名に招かれますが、なかなか実績が認められず、ようやく20歳の時に羽柴秀長に300石で招かれ、大名としての出世が始まり名前も高虎と呼ぶようになります。(1万石紀州粉河領主)
 天正14年(1586年)家康は豊臣秀吉に臣従を誓い、上京後の住まいをつくることを秀吉に命じられる。高虎が普請にあたったこの京都屋敷を家康が悦び、家康との親しい関係が始まった。その後、幾多の参戦により、伊予宇和島7万石、関ケ原の戦い後、今治20万3千石と外様大名ながら譜代大名以上の信頼を家康から受けます。
 そして慶長13年(1608年)大阪の秀吉方への備えのため、家康に信頼の厚い高虎が伊賀・安濃津(津)へ転封
(53歳)22万950石の領主となります。
 当時、大阪にはまだ豊臣秀頼がおり、いつ東方へ攻めてくるかもしれないため、天下普請の城つくりを高虎に命じ、慶長16年(1611年)に伊賀上野城・津城の改修にあたります。
 高虎の築城術による高さ日本一ともいわれる高石垣・城郭造り・城下町造りなど防御施設の役割を取り入れその城下町は今なお見事に残っています。
 さらに元和2年(1617年)日光東照宮の造営により32万3954石の大大名となります。
 終わりにこうした高虎の人物像として
・家康と同じ平和主義者
・幾多の合戦に参戦した苦労人
・恩義を重んじる人60-2
・家臣を思いやする人
・人として家臣からも同輩からも敬われる人
・時勢を読み解き、先を見極める人
等にまとめていただき、私たちの歴史の誇りとして、またわが郷土の宝として、最後まで興味深くお話を聞かせていただきました。
 
 
講演後、この機会を待ちかねたように、7〜8人の方から質問があり、それに対して一つ一つ丁寧に答えていただきました。皆さんは、同じ語り部の会のメンバーとして歴史についての興味・関心が深く「奥深く・熱心に勉強されていること」がよくわかりました。大変いい勉強になりました。帰り際、「今まで以上に高虎について親近感を抱き、たくさんの勉強になった。……」というお言葉もいただきました。
 ありがとうございました。

 
 

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