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東部地域住民自治協議会

 京都洛南人権ゆかりの地を訪ねて

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 (前述)
 私たちの暮らしの中にあるさまざまな人権問題は、古い習慣や封建的な考え方から起きていることは、しばしばあります。
 〔人〕という文字は、人間同士が支え合う社会をつくろうということだと思ってきましたが、最近の障害者への暴言、暴力事件を報道されているのを見るたびに、〔人〕には、弱者に圧力をかける一面もあるのだと思うのは私だけなのでしょうか。

 さて、9月27日(木)、人権啓発部会、草の根運動推進会議共催の平成最後の視察研修会に多数ご参加(35名)をいただき有難うございました。今回の視察地は京都洛南地区で、少しでも人権にふれあい、一つでも身に付けていただきたいとの思いで企画しました。
 午前9時に東部地区市民センターを出発し、午前11時に最初の目的地「東寺」に到着、人権ボランティアの川端さんの出迎えを受けました。その後、最後の視察地、醍醐寺まで川端さんには丁寧で心のこもった説明を受け大変お世話になりました。
 ◆東寺・教王護国寺
 空海(のちの弘法太師)によって平安京を戦国時代の戦火や落雷から護るため真言(密)教の道場として開かれた。また、東寺近くに土地をもらって自活していた(崇仁地区)散所法師が荘園の管理に派遣され東寺との連絡にあたっていた。この東寺散所を隷属民とされていたようです。(諸説あり)
 ◆柳原銀行記念資料館
 銀行本店として1907年(明治40年)に同和地区内に建立され1986年(昭和61年)道路拡幅工事で取壊されるところを保存運動が実り1997年(平成9年)に現在地に移築復元された。
 1871年(明治4年)部落解放令が発令されても翌年には学制・税制・戸籍・兵役などが打ち出され、生活は苦しくなり差別もなくならない上、政策による不況、鉄道の開通により履物の需要がサンダルから靴へと変わり、靴づくりには大きな資本が必要となった。そこで被差別部落独自の柳原銀行を自分たちの手で設立して、産業振興と教育の充実に努めた。39-2
 しかし、戦争毎につのる不況の中、ついに1927年(昭和2年)に銀行は休業して29年の歴史を閉じ 、現在は記念資料館として残されている。
  ◆耳塚・鼻塚
 16世紀末、天下統一した豊臣秀吉がさらに大陸に支配の手を伸ばそうと朝鮮半島に侵攻した。秀吉輩下の武将は古来一般の戦功のしるしである「首級」のかわりに朝鮮軍民男女の鼻や耳をそぎ塩漬けにして持ち帰った。
 秀吉の命によりこの地に埋められ供養を行った。この耳塚は戦乱下に被った朝鮮民衆の受難を歴史の遺訓として今に伝えている。
 ◆深雪山醍醐寺
 醍醐山全体を寺域とし、金堂、五重塔などが並ぶ。豊臣秀吉が「醍醐の花見」を繰り広げたことで知られる。醍醐の花見で秀吉は、桜700本を移植させ三宝院の庭園には藤戸石を据えた。この庭の造作等は史上最後の山水河原者賢庭によってまとめられた。

 京都には、寺社、庭園、史跡など数多くありますが、そこには京都の歴史と文化に寄与した被差別民衆の生活史がおりなされています。今回の視察研修で人権という視点でとらえ多くのことを学びました。

                            人権啓発部会長 南 徹雄

 

 

 

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